第1回 軍需産業から民需産業へ

地域のことがわかってくると無性に誰かに説明したくなります。地域や企業のことを世界史や日本史と繋げて紐解いていくと、自分たち自身との繋がりも見えてきます。仕事やプライベートでその場所に行ったときに自然に語り出してしまいます。

4月から多摩大学ながしまゼミがスタートしました。ゼミのフィールドは多摩エリア。これから学生たちと一緒に、地域や企業のことを調べていこうと思います。

第1回目のテーマは「軍需産業から民需産業へ」。多摩エリアの企業のことを調べていくときの基本中の基本です。しかし、平成生まれの学生にとって、戦争ははるか昔の出来事です。まずは、学生たちに学びのきっかけをつくるために、昭和の産業に詳しい地域の方々にお世話になって研究会議を行いました(5月1日実施)。オンラインでの会議で、戦前〜戦後の多摩エリアの産業の話を聞いた学生たち。そこで出てきたキーワードをもとに、チームで小テーマを考え執筆しました。

監修:多摩大学経営情報学部教授 長島剛

1.多摩エリアにあった一大軍需産業

私たちの住む多摩エリアには、様々な業種の優れた技術を持つ企業がいくつも存在します。企業にはそれぞれ歩んできた歴史があり、紆余曲折を経て現在の姿になっています。現在多摩エリアの経済を牽引するそれらの企業は、どのようにして生まれたのでしょうか。

多摩エリアの歴史を紐解いていくと、その手がかりとなる大きな転換期として、太平洋戦争が挙げられます。当時の多摩エリアは、鉄道網の整備が進んでいたことや広大な土地があったことから、沿線には軍事施設や多くの軍需工場が存在していました。中でも、一大軍需産業であった航空機産業は多摩エリアに多くの歴史を刻んでおり、陸軍航空本部の置かれた立川周辺の立川飛行機や昭和飛行機工業をはじめ、戦時中にはいくつもの航空機関連工場などが稼働し、周辺地域はたびたび空襲の標的とされていました。

そんな航空機会社のひとつに、ゼロ戦のエンジンなどを製造した中島飛行機があります。戦前の日本の航空機産業の中核であるともいえる中島飛行機は、1917年に群馬県新田郡尾島村(現・太田市)で創業し、1925年に現在の荻窪に東京製作所を開設。日中戦争最中の1938年に現在の三鷹駅の北側に武蔵野製作所(のち武蔵製作所)を構えました。この当時の航空機会社には多くの技術者がいましたが、その中でも中島飛行機は若い技術者を中心に優れた技術者が多く、それを支える設計者も、学校で首席になるほど優秀な人材が集まっていたそうです。中島飛行機はその技術力や航空機の性能の高さを謳われ、陸軍の主力戦闘機を製作するなど、当時、ライセンス生産を含めれば日本軍の機体の半分以上が中島飛行機製でした。

中島飛行機武蔵製作所「地下道」(武蔵野市)

戦後、中島飛行機はGHQの政策により航空機の製造禁止とともに財閥解体され、民需産業へ転換することとなりました。中島飛行機という会社、そして技術者たちはどのように変わっていくのでしょうか。

2.自動車産業としての新たな出発

終戦を迎えた1945年、GHQは航空機の研究・設計・製造を全面禁止とする航空禁止令を発令。戦時中の軍用機の大部分を担っていた中島飛行機は航空機の生産を中止し、富士産業と社名を変更します。しかし翌年、富士産業は財閥解体の対象となり、12社に解体されることになりました。

分散した12社は、それぞれ自動車産業やミシン製造などの民需産業に転身。航空機産業の最先端の技術を持ったエンジニアたちは新たな舞台で活躍し、戦後の多摩エリアにも次なる産業を生み出していきました。中島飛行機の創業地であった太田工場や三鷹研究所跡地の三鷹工場では、単気筒エンジンを搭載したスクーター「ラビット」を開発。試作の段階では、タイヤには残された爆撃機の尾輪を使用していたそうです。ラビットは1947年の発売以来、時代を象徴する手軽な乗り物として人気を得ました。1950年、朝鮮戦争をきっかけにGHQは日本に対する占領政策を改め、日本の独立と再軍備に向けて舵を切りました。1952年にはサンフランシスコ講和条約が発効され、中島飛行機は再合同へと動き出します。解体された12社のうち富士工業(太田、三鷹工場)、富士自動車工業(伊勢崎工場)など5社が出資し富士重工業(現・SUBARU)が誕生。SUBARUのエンブレムやロゴマークである6つの星が輝く「六連星(むつらぼし)」は、この5社と富士重工業を表しています。富士重工業は日本のマイカー時代の先駆けともなったスバル360を1958年に発売。初の大人4人乗り軽乗用車のスバル360は、実用性の高い性能やデザインで人気を博し、日本国民の暮らしに自家用車を推進する基盤となりました。その後もインプレッサ、レガシィなどの生産を行い、約60年の月日を経て日本を代表する自動車メーカーに成長していきます。

SUBARU東京事業所(三鷹市)

一方、中島飛行機と同じく企業解体された立川飛行機では、エンジニアが中心となり1947年に東京電気自動車を設立。工場のあった地域名にちなんだ電気自動車「たま」を発表し、性能が評判を呼びました。1952年には、富士産業(旧・中島飛行機)の荻窪工場と浜松工場を母体とする富士精密工業と提携し、ガソリン車であるプリンスを開発。社名をプリンス自動車工業に変更し、のちに立川市と武蔵村山市にまたがる広大な村山工場を構えます。村山工場ではプリンスやグロリア、スカイラインなどの生産が行われ、日産自動車との合併以降も主力車種の生産やスカイラインのテスト走行などを担っていました。その後、村山工場は1999年に発表された「日産リバイバルプラン」により約40年の歴史に終止符を打つことになりますが、この地で歴史に残る日本の名車が産み出されていたのでした。村山工場の跡地には、現在はショッピングモールや公園、病院などが建てられています。

このように、多摩エリアで大きな力を持っていた航空機産業は、日本の敗戦を経て自動車産業へと変化を遂げ、現代の日本の自動車史を語る上で不可欠な存在となったのでした。また、自動車産業の他にも、多摩エリアには、軍需産業から民需産業へとシフトしたニッチトップ企業が多く存在します。そのうちの一つにミシン産業がありました。

3.戦後のミシン需要と多摩のミシンメーカー

戦後の日本は、衣料の不足や戦災による家庭用ミシンの焼失からミシンの需要が高まっていました。また、政府が軍需産業から平和産業への転換先としてミシン産業を掲げたこともあり、ミシンメーカーの乱立が起こります。終戦翌年の1946年には、すでに50社ほどのミシンメーカーが再開、または新規参入していたということです。

多摩エリアでは、戦前から小金井市に工場を構えていた帝国ミシン(現・蛇の目ミシン)に加え、リッカーや東京重機工業といった、新たなミシンメーカーが誕生しました。この東京重機工業が、現在多摩市に本社を構えるJUKIです。今では、工業用ミシンをはじめ家庭用ミシンや産業装置などを世界へ輸出するJUKIですが、そのルーツは戦争に使用する小銃や機関銃を製造していた東京重機製造工業組合にあります。終戦とともに銃器の製造が禁止され、新たな産業へとシフトする必要があった東京重機工業は、銃器製造の技術や残された機械を生かせるミシン産業へと進んでいくことになります。

JUKI本社(多摩市)

ミシン産業へ進んだ東京重機工業は、1947年に生産したミシンをアメリカへ輸出。欧米のミシンメーカーが軍需産業からミシン産業への転換に乗り遅れたこともあり、日本の家庭用ミシンが普及していきました。東京重機工業は、海外の工場や販売会社を増やすなどして成長を遂げ、現在のグローバルなJUKIへとなったのでした。

もともと軍需企業であったJUKIが、戦後、民需産業に転身しグローバル企業へと成長を遂げたことは「偶然」ではなく「世の中が求める需要を汲み取っていった結果」なのだというところが注目すべき点ではないでしょうか。時代の要請に応え「今、必要とされていることは何か」を見つけ、それに対応しながら変化していくという企業のあり方。これは先に出てきた航空機産業から自動車産業への転換にも同じことがいえるでしょう。

多摩エリアの『地域×企業』をテーマに、第1回目は企業の軍需産業から民需産業への転換期について調べました。企業やその技術者たちの歩みは、地域の歴史としても同時に刻まれていきます。次回以降も「繊維産業」や「京浜工業地帯」など、多摩エリアに関係の深いキーワードを足がかりに、多摩エリアにおける『地域×企業』について理解を深め、この先の課題やその解決について対話を続けていきたいと思います。

多摩大学ながしまゼミ2年
 月本崇喜・佐々口珠莉・石川光一

※参考文献
1.文献・論文
  • ・鈴木芳行[2012]『首都防空網と<空都>多摩』吉川弘文館
  • ・齊藤勉 [1995]「昭和十年代の多摩」『多摩のあゆみ 第79号』たましん地域文化財団
  • ・廣田義人[2012]「日本におけるミシン部品量産技術の展開」日本産業技術士学会会誌
  • ・星野朗 [1998]「昭和初期における多摩の工業化」駿台史學/駿台史学会
2.インターネット