第3回 京浜工業地帯と多摩エリア

神奈川県川崎市は多摩地域と隣接している細長い地形の政令指定都市です。川崎駅前の、どことなく残る昭和の匂いとおしゃれな大型施設群。工場萌えスポットとしても人気のある臨海部の工業地帯。武蔵小杉駅周辺のタワーマンションの林立。多摩エリアにも繋がる、閑静な郊外新興住宅地。川崎市は様々な顔を持っています。

川崎市役所や市内企業を訪問すると、それぞれがシビックプライドを持ち、地域の連携が強い印象を受けます。地域と企業の歴史を辿りながら、隣町との違いを探していきます。

監修:多摩大学経営情報学部教授 長島剛

1.東京湾埋立事業と浅野總一郎

関東地方には、東京湾西岸の大田区と川崎市、横浜市を中心に広がる大規模な工業地帯が存在します。日本の三大工業地帯の一つである京浜工業地帯です。1928年(昭和3年)に東京湾の埋立事業が完成して以来、工業地帯は拡大を続けてきました。現在は府中市や日野市、八王子市など多摩エリアを含む東京西部、平塚市や秦野市など神奈川南部、また、埼玉県や千葉県にも及ぶ広大な工業地帯となっています。今回は、東京都から神奈川県にかけての臨海部と内陸部である多摩エリアのつながり、そしてその2つの地域を結んだ南武線に焦点を当ててみました。京浜工業地帯の中心である臨海部と、内陸部である多摩エリアはどのように繋がり、発展してきたのでしょうか。

京浜工業地帯の歴史を紐解くと、東京湾の埋立を推進した浅野總一郎というキーパーソンの名が挙げられます。明治初頭、生まれ故郷である富山から上京した浅野は、横浜で石炭事業を興し、産業廃棄物であったコークスなどの再利用の売込で成功。その後も廃品を利用した事業を拡大し、資源再生事業に多大な功績を残します。浅野は石炭販売事業により渋沢栄一に認められ、渋沢との出会いが浅野セメント(現・太平洋セメント)の創立に、また、京浜臨海部の埋立事業に繋がっていきます。

1896年(明治29年)、商用により欧米へ出張した浅野は、各国の港湾の発展に衝撃を受けます。当時、横浜港では大型船は沖合に停泊し、小舟が波止場と大型船を行き来して荷の揚げ下ろしを行っていましたが、訪れた欧米諸国ではどこも港湾に大型船が着岸し、直接荷役を行っていたのでした。その様子を見た浅野は、日本にも欧米諸国のような港湾と、その発展に繋がる工場を一体化させた臨海部の工業地帯の建設を構想します。欧米からの帰国後、東京湾岸の埋立と築港を東京府(当時)や神奈川県に出願しましたが、大規模な計画であるが故に実現性を問われるなど、当初は認可を得られませんでした。また横浜市では、東京湾岸の埋立と築港の計画は、これまで圧倒的であった横浜港の地位を下げるものと危惧され、市民による反対運動も起こりました。しかし、浅野の東京湾埋立築港構想に賛同した安田善次郎や渋沢などの協力が大きな力となり、1912年(明治45年)に鶴見埋立組合(現・東亜建設工業)を設立。これを契機として、川崎から鶴見にかけての海岸沿いを埋める大規模工事が着手されることとなりました。

1913年(大正2年)に始まったこの埋立事業は15年の歳月をかけて終了し、今日の京浜工業地帯の礎となりました。埋立終了後、浅野財閥系企業である日本鋼管(現・JFEホールディングス)や日本鋳造をはじめとした多くの会社が進出し、京浜工業地帯は発展していきます。深川(現・江東区)を拠点とする浅野セメントも川崎で新工場の操業を開始し、同時期にセメントの原料となる石灰石の供給地を西多摩に求めます。そして、西多摩の石灰石を川崎の工場に輸送するために、南武鉄道(現・JR南武線)の開通に大きく関わっていくことになりました。

現在の南武線(国立市)

2.京浜工業地帯と多摩エリアを結ぶ輸送ライン「南武線」

現在、川崎駅と立川駅をつなぐJR南武線。ピーク時の乗車率は184%(2018年)と、東京圏における高乗車率路線の上位に入ります。1927年(昭和2年)の開通当初、南武鉄道(現・JR南武線)は砂利や石灰など資源の運搬を行うための鉄道として活躍していました。多摩川流域の砂利は江戸時代から土木や建築の工事に、明治以降は道路や鉄道に多く利用され、多摩川沿いの農村では砂利ふるいが農家の現金収入源となっていました。その後、大正になりコンクリートの骨材としての利用が増え、関東大震災の後には復興のため大活躍。大正末期にはそれまで人力で行われていた砂利の採掘、選別、洗浄などの作業が機械化されていきました。砂利産業は大正末から昭和初期にピークを迎えるものの、堤防の破壊や水質汚濁などを引き起こし、多摩川での砂利採掘は幕を下ろします(1965年(昭和40年)に全面禁止)。この多摩川流域の砂利運搬によって開業した鉄道は南武鉄道だけでなく、1910年(明治43年)開業の東京砂利鉄道(のち国鉄下河原線、現在は廃線)、1916年(大正5年)に開通した京王電気軌道の多摩川原線(現・京王相模原線)、1922年(大正11年)に全線開通した多摩鉄道(現・西武多摩川線)があり、当時の砂利産業の重要性がうかがえます。

南武線前身である多摩砂利鉄道は、1920年(大正9年)に川崎~稲城間の敷設免許を取得。創業から2ヶ月後には社名を改め南武鉄道となりましたが、第一次世界大戦の戦後恐慌や関東大震災など様々な要因が重なり、路線の開業までに7年もの歳月を要することとなります。

多くの災難が降りかかり着工できずにいた南武鉄道の救世主として現れたのが、浅野セメントでした。西多摩の鉄道沿線に鉱山を持っていた浅野セメントは青梅電気鉄道(現・JR青梅線)を傘下に収め、青梅電気鉄道から中央線、山手線などを経由し、石灰石を川崎のセメント工場まで運んでいました。川崎と立川を結ぶ南武鉄道を利用すれば運搬時間短縮やコスト削減ができると考えた浅野は、南武鉄道に出資することにしたのです。そして、ついに1927年(昭和2年)に川崎~登戸間、矢向~川崎河岸間にて南武鉄道開業。その2年後には川崎~立川間が全線開通しました。開通後は目黒競馬場(現・東京競馬場)を府中に誘致するなど、沿線は繁栄していきます。また、日本電気(NEC)や富士通信機製造(現・富士通)などの工場が沿線上に立ち並ぶようになり、南武鉄道は工場への通勤客など利用者が増加していきました。時代が戦後恐慌から世界恐慌へと突入し日本経済が傾く中、もしも浅野セメントが経営に乗り出していなかったら、今日の南武線はなかったかもしれません。

当時の南武鉄道、青梅電気鉄道と砂利鉄道線

その後、南武鉄道は五日市鉄道(現・JR五日市線)を合併し青梅電気鉄道と提携を結びますが、1940年(昭和15年)に太平洋戦争により陸運統制令が発令。鉄道は国有化され、太平洋戦争の後も元の会社に戻されることはありませんでした。

3.多摩エリアと臨海部の軍需産業

多摩エリアと京浜工業地帯の中心部である臨海地域には、ともに軍需産業で栄えた時期がありました。しかし、それぞれの地域を見ると、現在の姿は随分異なっていると言えるでしょう。同じ戦争を経た隣接する地域の軍需産業ですが、その在り方にはいくつかの点で違いがあったようです。そこで、京浜工業地帯の中でも南武線で結ばれた多摩エリアと川崎の軍需産業を比較し、その特色について考察してみました。

多摩エリアは古くから繊維産業が盛んな地域でした。昭和初期になると、京浜工業地帯の中心部から地価の安い多摩エリアへの機械工業の移転や疎開が起こりました。これをきっかけとして、多摩エリアに機械工場が増加していきます。移転してきた工場の中には富士電機や日野重工業(現・日野自動車)といった軍需関係の工場が多く、多摩エリアの産業に軍需色が強まっていきました。また、多摩エリアには陸軍関係施設が多かったこともあり、航空機や中型戦車、通信機器などを中心とした軍需産業が発展していくこととなりました。一方、川崎では埋立事業前の1906年(明治39年)から横浜精糖(現・大日本明治製糖)の川崎工場設立をきっかけに工業都市化が進み、東芝や日本鋼管などの大企業が工場を設立していきました。その結果、川崎は第一次世界大戦における大戦景気を経験します。川崎では多摩エリアよりも早く工業化が進み、軍需産業に関して基盤ができていたということになります。その後、満州事変(1931年(昭和6年))から戦争統制により造船、自動車、航空機などの9種を重点産業とし、川崎の産業は大きな発展を遂げていきました。

日野重工業が戦時中製造していた陸軍の牽引車(写真:ダイハツ工業提供)

どちらの地域においても鉄道が通っており、軍需産業が栄えていた時代において軍需製品を輸送する手段として、鉄道が重要な意味を持っていたのではないかと推測されます。また、沿線企業の所在地に着目すると、川崎は南武線を中心に企業間の距離が近い分布をしていました。しかし多摩エリアでは、川崎に比べ国鉄や私鉄の周りに企業が少なく、企業間の距離も離れて点在していました。

2つの地域の軍需産業の大きな違いは「工業化の始まり方と企業間の距離」にあるのではないかと考えられます。現在の各地域においても、軍需産業が栄えていた時代の影響を少なからず受けているようでした。川崎では昔から大企業が存在し、その下請けのサプライチェーン企業が多く集まっていたため、現在でも小規模零細企業群といったように中小企業が密集し分布しています。しかし、多摩エリアには大企業が少なく、企業は下請け企業としてではなく、独自の技術や価値を作り上げることで生き残ってきたのだと考えられます。その結果として、ニッチトップ企業と呼ばれる、ニッチな分野に特化し世界市場で活躍するトップ企業が、数多く誕生することとなりました。現在の多摩エリアの産業の特徴でもあるニッチトップ企業の活躍には、歴史的背景が深く関係していたと言えるでしょう。

次回の『地域×企業→未来』では、多摩エリアのニッチトップ企業をテーマに、地域にある産業や企業の価値に迫ります。現在の多摩エリアにある企業の事業内容や理念、歴史などを捉えることによって、「地域×企業」が向かう未来についてさらに考察を深められればと思います。

多摩大学ながしまゼミ2年
 月本崇喜・佐々口珠莉・石川光一

※参考文献
1.文献・論文
  • ・渡邉恵一[2005]「浅野セメントの物流史 近代日本の産業発展と輸送」 立教大学出版会
  • ・今尾恵介[2008]「多摩の鉄道沿線 古今御案内」けやき出版
  • ・川崎労働史編さん委員会[1987]「川崎労働史 戦前編」川崎市
  • ・星野朗[1998]「昭和初期における多摩地域の工業化」駿台史学
2.インターネット