第2回 八王子繊維産業の歴史と現在

八王子繊維産業のことを学ぶために、今回も地域の方々にお世話になって研究会議を行いました(5月16日実施)。前回から引き続き参加いただいた方々のほか、本文中に登場する奥田染工場の奥田博伸氏、日本の地場産業をグローバルな文化ビジネスへと導いている北林功氏にも参加いただきました。

学生たちは、Zoomのチャットを活用してたくさんの疑問点を洗い出していきました。繊維産業に関わった人たちは何をしていったのか。工場の跡地は今どうなっているのか。生まれた技術はどの様に活用されていったのか。

地域と企業の歴史を辿りながら、多摩エリアの未来を探していきます。

監修:多摩大学経営情報学部教授 長島剛

1.多摩エリアの繊維産業のあゆみ

多摩エリアにおける繊維産業といえば、桑の都とも呼ばれた八王子、「青梅縞」や「青梅夜具地」で栄えた青梅、「村山大島紬」の技術を確立した武蔵村山が挙げられます。中でも八王子は、繊維の一大産地として全国に名を馳せ、多摩エリアの繊維産業を牽引した地域です。

八王子周辺の丘陵地帯は耕地面積が狭く、古くから農閑余業としての養蚕・桑栽培が注目され、多くの農家が養蚕業を営んでいました。江戸時代になると、多摩の農家で生産された生糸が八王子に集積され、織物業者によって織物が作られるという構図ができあがります。当時の八王子では六斎市(ろくさいいち)という市が開かれ、八王子だけでなく青梅や五日市などを含む各地から生糸や織物が集まり、八王子は多摩エリアにおける繊維産業の中心地となっていきました。六斎市は、毎月4と8のつく日に現在の横山町と八日町で交互に開催されており、宿場町であった八王子には様々な地域の商人たちが訪れたそうです。同時期に繊維業の先進地域であった桐生(群馬)や足利(栃木)から織物業者たちが八王子に移住したことにより、八王子には織物の先進技術がもたらされ、全国的にも繊維産業の地として知名度を上げていきました。

旧甲州街道 八日市宿跡(八王子市)

1859年(安政6年)、横浜港が開港され外国との自由貿易が始まります。海外から多くの船が横浜に入船するようになり、これが八王子の繊維産業にも大きな影響を及ぼすことになりました。その頃のヨーロッパでは、ウィルスの流行により繭生産が低下し、養蚕業が危機に瀕していたため、日本の生糸や蚕種は輸出の主要品目となっていきました。それまで八王子の織物業者に生糸を販売していた商人たちは、横浜での大規模な取引のため、すべての生糸を横浜に運ぶようになったのです。やがて、八王子だけでなく、西陣(京都)や桐生など全国の織物産地で生糸の入手が困難となっていきました。横浜港開港の翌年、状況を見かねた幕府は「五品江戸廻令」を発令。生糸を含む5品の輸出に限ってはいったん江戸を通し、国内の需要を満たしてから横浜港に出荷すべきことを命じました。しかし、この政策は、商人たちはもとより諸外国からも反発を受け、効果は上がらなかったそうです。

当時、八王子から横浜に生糸を運ぶ役割を担っていたのが鑓水(やりみず)商人です。八王子の南にある小さな集落であった鑓水村(現・八王子市鑓水)には生糸の取引をする商人が増えており、横浜港開港後は横浜での取引で大きく力をつけていました。この鑓水商人をはじめ生糸商人たちが通った道が、八王子と横浜を結び多摩の生糸をヨーロッパへと運んだ「絹の道」です。絹の道は、甲州街道のような公道ではなく、多摩丘陵の高低差のある難路が続く里道でした。道幅も狭く険しい道のりでしたが、横浜までの距離は江戸を経由するより断然近いものでした。江戸を経由するための甲州街道には、宿ごとに手数料を支払い、荷を積みかえるなどの厳格なルールが設けられており、商人たちは悪路であっても絹の道を利用し生糸を横浜に運びました。養蚕は関東西部から中部地方が主な産地だったため、最寄りの港である横浜は生糸輸出の中心地として成長。1862年(文久2年)には、生糸は横浜港での輸出総額の8割を占めるようになり、商人たちは潤っていきました。しかしその一方で、生糸が入手できない織物業者たちは壊滅的なダメージを受けていました。さらに、輸入されるようになった化学染料が八王子の繊維産業に追い討ちをかけることになります。

絹の道(八王子市)

2.山あり谷ありだった八王子の繊維産業

横浜港開港により化学染料の輸入が始まり、幕末には全国の織物産地で化学染料が使用されるようになっていきました。しかし、1880年代(明治13~22年)の八王子では、輸入された粗悪な化学染料を使用し質の低い織物を量産したため、繊維業界は経営不振に陥りました。そこで、一念発起した業界関係の仲介商や製造業者などを中心に、1886年(明治19年)に八王子織物組合(現・八王子織物工業組合。以下「織物組合」)が設立されました。その翌年には、染色の先駆者である山岡次郎や中村喜一郎などを招聘し、八王子染色講習所(後の都立八王子工業高校)を開設。そこでは、ヨーロッパで最先端の技術を学んだ講師たちの見事な教育が行われ、八王子織物の技術と品質が向上していきました。これらの出来事が原動力となり、八王子織物は発展を遂げていきます。

明治から大正に時代が変わり、1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦の戦時好景気以降、日本は工業化が進んでいきました。従来、八王子織物は手織り機により手足を駆使しながら作られていましたが、電力を使用した大型の力織機(りきしょっき)が普及。この力織機1台で手織り機数台分の織物を作ることができたため、農村の織物業者は動力を求めて市街地にこぞって移住しました。その結果、八王子の人口が増加し、1917年(大正6年)に市制施行。東京府の中では東京市に続いて2番目に八王子市という「市」になり、農村工業から都市工業へと変化を遂げました。

とんとん拍子で技術進歩した八王子織物でしたが、日本は戦後不況と関東大震災とが相まって大正中期から金融恐慌に陥ります。昭和初期も景気低迷期でありながら、織物組合は海外市場の開拓や伝統的な織物の「多摩結城」を市場に送り出すなど躍進の道を探りました。しかし、日中戦争勃発により日本は徐々に統制された経済体制に移行し、繊維産業は急速に縮小していきます。1941年(昭和16年)には、太平洋戦争の影響で織物組合を中心とした八王子の業者の3分の2が、国家のために織機を提供。1945年(昭和20年)8月2日の八王子空襲では、市街地のおよそ9割が焼け野原となりました。

終戦後、八王子の繊維産業は政府の融資を受け、戦前程度までに経済復興しました。1949年(昭和24年)には繊維関係の統制が撤廃されたことに加え、戦後の衣料不足から織物の需要が増加していきます。その結果、ガチャンと機を織れば万の金が儲かる「ガチャ万景気」と呼ばれる景気拡大が起こりました。八王子の繊維産業は時代の波に乗り、ネクタイを中心に傘地やマフラーなどの雑貨織物にも着手。ネクタイ生産量に関しては、1956年(昭和31年)には全国の6割を占めていたそうです。こうして八王子は再び繊維産業の町として機能していくことになりました。

3.地場産業が地域に残すもの

古くから地場産業としての繊維産業が盛んに行われてきた八王子でしたが、現場の高齢化や後継者不足、アジア諸国からの繊維輸入の増加により、繊維産業は徐々に衰退していきます。産地も生産量も縮小の一途を辿り、1950年代には八王子の産地全体で9,000台以上あった力織機が、1998年には758台にまで減少しています。2020年現在の八王子の町には、繊維産業はどれくらい残っているのでしょうか。

八王子市中野上町にはかつて萩原製糸工場という会社がありました。この工場は1877年(明治10年)に創業してから、八王子の養蚕業を支える大きな工場でした。工場近くの浅川には創業者が造った「萩原橋」が現在もあり、中野上町から浅川を越えて市街地に向かう一般道路として活用されています。しかし、創業から20年余りで経営不振などの理由により会社は片倉製糸に譲渡され、片倉製糸八王子製糸所として関東の中でも富岡に並ぶ程の工場になりました。1943年(昭和18年)からは軍事需要に伴い日本機械工業に貸し出され、現在は消防車や産業機械などを制作する工場になっています。

一方、昔も今も八王子で織物産業を行い、その技術や歴史をしっかりと残してきた企業もあります。ネクタイ製造業を営む成和は千代田区に本社を構える会社ですが、1956年(昭和31年)に成和織物工場を八王子市明神町に開設。その5年後には八王子市北野町にネクタイ専門の製織工場(現・成和ネクタイ研究所)が建設されました。北野町の工場には機資料館が併設され、養蚕や機織り関連の貴重な機械や資料などが展示されています。

また、日本機械工業と同じく中野上町に位置する奥田染工場も、1932年(昭和7年)に葛飾区立石から移転してきて以来、染工場として操業し続け、現在はハンドシルクスクリーンプリントを中心とした製品を制作しています。近年は都心に近い立地を生かして、デザイナーや企業との直接の取引や、全国の織物産地との交流も積極的に行い、八王子の繊維産業の中心的発信地になっています。2017年に奥田染工場がオープンした「つくるのいえ」では、ワークショップや中野上町の工場見学など様々なイベントを開催し、各地から人が訪れています。

つくるのいえ(八王子市) 写真提供:奥田染工場

地場産業は、時代ごとに形を変えながら人々の暮らしに関わり、地域に根付いてきました。
現在の八王子市には、繊維産業の町といえるほど多くの事業所は残っていないかもしれません。それでも多くの人に「八王子=繊維の町」と認識されるのは、繊維産業が栄えた歴史によってつくられた町と、その歴史に支えられる今があるからではないかと思います。繊維業者が軒を連ねていた八王子の大通りには、今はマンションや高層ビルが並んでいます。現在の町のこの姿も、繊維産業による繁栄がもたらしたものといえるでしょう。産業は時代と共に隆盛や衰退を繰り返し、形を変えながらも地域に生き続けます。その長い道のりの中で、地域に技術やお金、モノ、そして文化などを残していくのではないでしょうか。

多摩大学ながしまゼミ2年
 名古翼・藤田龍斗・免田思乃

※参考文献
1.文献・論文
  • ・加藤隆志[2002]「多摩の養蚕・織物」『多摩のあゆみ106号』たましん地域文化財団
  • ・小作寿郎[1993]「多摩の産業遺跡」『多摩のあゆみ70号』たましん地域文化財団
  • ・鈴木利信[1989]「多摩の道探訪」『多摩のあゆみ55号』たましん地域文化財団
  • ・大石学 [2003]「駅名で読む江戸・東京」 PHP新書
2.インターネット