第5回 多摩エリアの金融機関

地域を考えるとき、金融機関の役割は非常に大きなものがあります。地域の産業が芽生え始めた頃、金融機関が必要とされて生まれました。地域が成長または衰退する中で金融機関も変化します。地域にこだわり地域を守り続けることを使命とする金融機関がある一方で、市場を求めて営業エリアを拡げていく金融機関も出てきます。今回は多摩エリアの金融機関の歴史とともに、地方銀行のインタビューも行いました。歴史の中で生まれたひとつひとつのつながりが、結果として大きな動きになっているのではないかということを感じることができました。

監修:多摩大学経営情報学部教授 長島剛

1.明治時代の産業と金融機関の役割

日本における金融機関の始まりとして、江戸時代の『両替商』があります。その流れは室町時代を発端として江戸時代に確立し、預金や貸し出し、為替など現在の銀行のような役割を果たしてきました。明治時代になると新しい国家制度のもとで、明治政府は殖産興業政策の推進を図ります。それに伴い1872年(明治5年)、銀行制度が進んでいる欧米を模範とし国立銀行条例が施行され、翌年、日本における最初の近代的銀行制度である第一国立銀行が設立されました。国立銀行とは、国立銀行条例に基づいて設立された民営の銀行です。同時期に第一国立銀行を含め4行が設立され、『兌換紙幣(だかんしへい)』と呼ばれる金貨との交換義務をもつ銀行券を発行していました。

その後、1876年(明治9年)の国立銀行条例の改正により『不換紙幣』の発行が認められ、政府が積極的に銀行設立を推奨。1879年(明治12年)までに153の国立銀行が設立されました。この流れの中で多摩エリアに最初に設立された銀行が、第三十六国立銀行です。1878年(明治11年)、繊維産業の中心地であった八王子に、第三十六国立銀行は設立されました。当時の八王子では繊維産業の近代化が起こっており、工場の資金繰りなど、社会的に金融機関が必要とされていたようです。しかし、一方でこの時期の銀行の乱立と銀行券の過剰発行は、日本国内に激しいインフレーションを引き起こします。紙幣整理のため政府は1882年(明治15年)に日本銀行を設立し、翌年の銀行条例の改正により銀行券の発行は日本銀行のみの業務となりました。これにより国立銀行は紙幣の発行を停止し、普通銀行に転換することとなりました。さらに第二次国家総動員法(1938年)に伴う戦時統合により、各地で銀行の強制的な統廃合が起こり、それぞれの地域の地方銀行が誕生していきます。

多摩エリアでは第三十六国立銀行設立後、青梅銀行(現・青梅市)、玉川銀行(現・小平市)、拝島産業銀行(現・昭島市)、多摩農業銀行(現・昭島市)など39行もの銀行が設立されました。当時の金融機関の分布を見ると、八王子や青梅をはじめ、養蚕、織物、藍、製茶など換金性の高い産業のあった地域に集中していることが分かります。その後、多摩エリアの金融機関も統廃合を繰り返し、第三十六国立銀行をはじめ多くの銀行がメガバンクである現在のみずほ銀行となりました。

2.多摩エリアなのに山梨? 横浜? 群馬?

明治時代以降、多摩エリアにはたくさんの銀行が設立されました。現在の多摩エリアの町並みの中には、山梨中央銀行、群馬銀行、横浜銀行などの地方銀行の店舗も見られます。主に本店のある地方都市を中心とした地域を営業基盤とする地方銀行は、本拠地である各都道府県において最大規模の銀行であることが大半であり、地域経済にとって存在感の大きい金融機関です。1960年代以降に多摩エリアに支店を構えた山梨中央銀行、群馬銀行、横浜銀行の、それぞれの本拠地である山梨県、群馬県、神奈川県は、1859年(安政6年)の横浜開港から鉄道が発達する明治の中頃まで、主に繊維産業を通じて八王子を含む多摩エリアの産業と深い関わりがありました。山梨県からも群馬県からも、八王子を経由して絹の道を通り、横浜港までの道のりを行き来した商人が大勢いたはずです。ながしまゼミでは、地方銀行の進出と過去の産業の歴史とは大いに関係性があるという仮説を立て、なぜ地方銀行が多摩エリアに店舗を拡大したのかを調査しました。

3行のうち最初に多摩エリアに展開したのは、1968年(昭和43年)に八王子支店を設立した山梨中央銀行です。支店を構えた千人町は、かつて甲斐の国(現・山梨県)の武田家の家臣だった武士たちを中心とした「八王子千人同心」が居住した地域でした。また、絹商人が八王子を経由して横浜港まで絹を運んでいたことなどもあり、山梨と八王子は歴史的なつながりが極めて強いといえるでしょう。1968年は高度成長期であり、山梨県民の東京への移住増加も見込まれ、中央線や京王線で都心にアクセスできる八王子に支店が開設されたということです。

山梨中央銀行八王子支店(八王子市)

また、1976年(昭和51年)には横浜銀行多摩支店が新設されましたが、この多摩支店は1987年(昭和62年)に富士銀行に営業譲渡が行われました。その後、横浜銀行は2007年(平成19年)に再び多摩センター支店を新設。団地住民の資金運用や住宅ローン貸出を視野に入れた事業展開でした。「第12回 多摩地区企業のメーンバンク実態調査(2019年12月24日発表)」では地元信用金庫やメガバンクがシェア上位を占める中、横浜銀行は9位と地方銀行の中ではきらぼし銀行に続いています。

群馬銀行は、1977年(昭和52年)に初めて多摩エリアである八王子に89店舗目の支店を設立しました。八王子と同様に古くから繊維産業で栄えた群馬は、現在でも桐生、伊勢崎、太田などの地域に多くの繊維関連企業が集まっています。主にこれらの特定業種に貸出をしていた群馬銀行は、貸出業種の分散化を図るとともに、広域経済圏の創出を狙って八王子へ店舗を展開しました。

このようにして、これらの地方銀行は多摩エリアに店舗網を拡大していきました。この経緯などを元に考察すると、過去の産業の関わりだけが県外展開に拍車をかける要因ではなかったようです。しかし、積み重ねてきた産業の歴史や人のつながりというものも、少なからず関係があるのではないでしょうか。

3.多摩エリアにおける信用金庫の役割

多摩エリアには、多摩信用金庫、青梅信用金庫という2つの信用金庫が本店を構えています。かつては八王子信用金庫や太平信用金庫もありましたが、2006年(平成18年)に多摩中央信用金庫と合併し、現在の多摩信用金庫になりました。信用金庫・信用組合は、会員や組合員の相互扶助を目的とした共同組合の金融機関です。明治維新後、中小商工業者など経済的弱者に金融の円滑を図ることを目的に産業組合法が制定され、信用組合が誕生。1951年(昭和26年)には信用金庫法が施行され、会員外の預金も扱え、地域の繁栄を図る相互扶助を目的とした信用金庫が誕生しました。

多摩信用金庫本店(立川市)

先の「第12回 多摩地区企業のメーンバンク実態調査」によると、多摩信用金庫のシェアは23.20%と11年連続首位となっており、建設、製造、卸売、小売、不動産、運輸・通信、サービスの主要業種別ランキングでも、多摩信用金庫が全ての業種で首位を獲得しています。売上規模別のランキングを見ると、多摩信用金庫がシェア首位を獲得しているのは、10億円未満の融資先でした。すなわち、融資先が中小企業であるということです。その他にも、上位10金融機関の中には、西武信用金庫、青梅信用金庫、城南信用金庫がランクインしています。

各地域にはそれぞれ、地方公共団体が税金の収納などの事務を行わせるための「指定金融機関」というものが存在します。指定金融機関には地元地方銀行が指定される場合が多く、群馬県を例にしてみると、35市町村のうち24市町村で群馬銀行が指定金融機関になっています。しかし、多摩エリアでは30市町村のうち19市がみずほ銀行や三菱UFJ銀行などのメガバンク、9市で多摩信用金庫や西武信用金庫などの信用金庫が指定されていて、地方銀行が指定金融機関となっているのは2市のみでした(指定代理金融機関、輪番制含む)。

他の地域と比べて地方銀行のシェアが少ない多摩エリアでは、メガバンクおよび信用金庫が地方銀行の役割を担っており、コロナ禍においても中小企業をはじめ事業主への支援に奔走しています。多摩エリアではこれらの金融機関が地域金融機関として、より一層地域に寄り添い、お金の支援だけではなく企業同士をつなげたり、地域を活性化させるための活動を通して地域を支えているといえます。

明治期から設立された各金融機関は合併や改称をしながら拡大していき、次第に地域の繁栄と経済の両面を支える金融機関へと成長し、産業の成長を大きく支えてきました。現在、郊外都市の問題となっている高齢化や中小企業の事業継続、産業振興などをサポートしていく機関として、地域金融機関の存在はより一層大きくなっていくでしょう。

多摩大学ながしまゼミ2年
 名古翼・藤田龍斗・免田思乃

※参考文献
1.文献・論文
  • ・伊藤正直 佐藤政則 杉山和雄[2019]『戦後日本の地域金融:バンカーたちの挑戦』日本経済評論社
  • ・沼謙吉 関島久雄 稲葉芳亭 宮川康 宮岡和紀[1975〜1977]「多摩の金融史」『多摩のあゆみ創刊号〜6,8,9号』たましん地域文化財団
  • ・早川大介[2017]「多摩の金融史 2」『多摩のあゆみ167号』たましん地域文化財団
2.インターネット