第7回 多摩エリアの外食産業

コロナ禍の外食産業は窮地に立たされています。全国の至る所から外食チェーン店の閉店の話が聞こえてきます。同時に、テイクアウトはもちろん、介護や病院の給食市場や家庭用冷凍食品市場に参入する企業も出てきています。多摩エリアは、ベッドタウンだったという特徴から、もともと外食チェーンの本社や店舗も多く存在しています。今回は、その歴史を整理するとともに、チェーン店ではないもう一つの外食産業である個店について注目してみました。ブランディングによるまちづくり事例をインタビューすることで、外食産業のこれからを探ってみることにしました。

監修:多摩大学経営情報学部教授 長島剛

1.外食産業の歴史

日本の外食の歴史は、江戸時代より都市の発達とともに歩みを進めてきました。外食という行為が成立するためには、貨幣経済のある程度の発展と、一定の外食需要に応えようという外食産業提供事業者が必要です。このような条件を満たしてきたのは、商業的な市場や多数の人が行き交う街道などが発達し、都市として発展した地域です。

第二次世界大戦後の1956年、高度経済成長期が始まっていた日本国内の飲食店数はおよそ17万店でしたが、高度経済成長期終盤の1972年には48万店以上にも増えています。この頃の外食提供施設はその多くが個人経営によるものであり、それらは産業と呼ぶにははばかられるほど小さなものでした。外食提供事業が産業としての歩みを開始するのは、アメリカで発達したレストランチェーンの仕組みが日本に紹介されて以降の歴史であるといえるでしょう。

日本は1969年に第2次資本の自由化という政策を採ります。この自由政策によって、アメリカなどの外国資本の企業が日本国内で事業活動することができるようになりました。1970年に開催された大阪万国博覧会にはアメリカなど海外のレストランやファストフードのチェーン店が出店し、この万博により多くの来場者が外国の食文化を初体験したそうです。同年には、ことぶき食品(現・すかいらーくホールディングス)がファミリーレストランのすかいらーく(当時・スカイラーク)1号店を府中市に出店。日本でいち早くセントラルキッチン(集中調理工場)を導入し、大阪万博にも出店していたロイヤル(現・ロイヤルホールディングス)は、1971年にロイヤルホスト1号店を北九州市に構えます。1973年にはイトーヨーカ堂(現・セブン&アイ・ホールディングス)がアメリカ大手のデニーズ社とライセンス契約を結びデニーズジャパンを設立。翌年、デニーズ1号店が誕生しました。また、ケンタッキーフライドチキンやマクドナルド、ミスタードーナツなどのファストフードチェーンも同時期に続々と1号店をオープンしていきました。これらのレストランチェーンは、その後急速に店舗数を拡大していきます。清潔感溢れる広々とした店内、ハンバーグ&エビフライ、ドリアなど多くの人に好まれるような洋食メニュー、明るくテキパキした従業員の接客態度などが消費者に支持されたのです。

すかいらーくホールディングス本社(武蔵野市)

80年代に入るとファストフードやファミリーレストランを日常のなかで使いこなすのはごく一般的なこととなり、外食産業はさらに発展していきます。店舗やメニューにも新しいトレンドが採り入れられ、また、居酒屋や喫茶店などの新たなチェーン業態も増えていきました。

多摩エリアでも、1970年にオープンしたすかいらーく以降、様々なレストランチェーンが進出し店舗を展開してきました。現在、多摩エリアには誰もが知るような大手チェーン企業がいくつも本社を構えています。

収益ランキングトップ10を見てみると、もともと多摩エリアで創業したすかいらーくレストランツ(グループ会社ニラックスを含む)とうかい、タイレルを除く6社は、東京23区内もしくは他県から多摩エリアへ移転してきた企業です。また10社中6社が武蔵野市に所在し全国各地に店舗を展開しています。多摩エリアは都心に近く、都心よりも地価が安いということから、企業が飲食店を展開する拠点に選びやすいのではないかと思います。それらの企業の系列店舗ももちろん多摩エリアに数多く存在し、レストランチェーンはもはや生活の中の日常風景となっています。ただ、全国展開のレストランチェーンであるがゆえ、全国どこに行っても見られる風景です。かつて、外食文化の創成期にあっては、どのお店に入っても同じメニュー、同じサービスが受けられる安心感、それこそがチェーン店の魅力でもあり人気の理由でもありました。それから半世紀が経ち、人々の生活スタイルの変化とともに外食文化そのものも様変わりしています。これからの地域を考えたとき、地域の外食産業は何を求められ、何に応えていけばいいのでしょうか。

2.ベッドタウン多摩とすかいらーくの発展

ガストやバーミヤン、ジョナサンをはじめ多くの系列チェーン店を展開するすかいらーくホールディングスの創業は1962年。保谷市(現・西東京市)のひばりが丘団地で設立されたことぶき食品が前身です。設立当初の経営は決して順調とはいえませんでしたが、倒産寸前の状況を乗り切り1970年、府中市にスカイラーク1号店を出店。創業の地であるひばりが丘に因んだ店名での再出発でした。この1号店は、アメリカのロードサイドのコーヒーショップを参考に車での来客をターゲットとした、甲州街道沿いに広い駐車場を備えたレストランでした。ことぶき食品は1974年に現在の名前でもあるすかいらーくになり、国分寺市、小金井市など多摩エリアに店舗を拡げていきました。その後、すかいらーくは世間でも大きく認知され、ファミリーレストランのトップとして業界を引っ張る存在になりました。

スカイラーク1号店がオープンした当時、多摩エリアは高度経済成長期の都市開発が進められ、多摩ニュータウンが誕生しました。多摩エリア全体がベッドタウンとして発展していき、たくさんの中流階級のサラリーマンが移り住んできた時代でした。その後90年代に入るまで多摩ニュータウンを中心とした東京郊外地域は人口増加を続け、車で行けるリーズナブルな価格帯のファミリーレストランは需要を増していきました。時代の波に乗りすかいらーくは店舗数を拡大し、ピークの1993年には700店舗以上が全国各地で営業していました。しかし、時代の移り変わりと共に人々のライフスタイルも変化し、すかいらーくホールディングスはより低価格なガストなどへと店舗を転換していきます。2009年にはすかいらーくの全店舗が閉店となりました。

今年は新型コロナウィルスの影響により、すかいらーくホールディングスも大きな打撃を受けているようです。12月中には3200以上ある全国のグループ店舗のうち約200店を閉店し、さらにデリバリーやテイクアウトを強化。デリバリー需要の高いエリアでは、デリバリーに強いガストへの店舗転換を推進し、活路を見出そうとしています。

3.地域の産業とまちづくり

大手外食チェーン店が根を張りやすいベッドタウンである多摩エリアですが、一方でそれぞれの町に根付いた「食」や、その町になくてはならないといった飲食店も数多くあります。そうした地域の中の外食産業を地域ぐるみで支える、多摩エリアならではの取り組みがありました。

国分寺市のあちこちの飲食店の店先で見かける「こくベジ」のフラッグ。こくベジとは、国分寺市内の農家が販売するために生産した農畜産物全ての愛称です。300年前の新田開発から今日まで、国分寺では土を育むことを大切にしながら農業が営まれてきました。そこでつくられた農畜産物をブランディングし、それを使用した飲食店と一緒にPRすることで市内消費を促進し、農地を未来へとつないでいこうというのが、2015年に立ち上がった「こくベジプロジェクト」です。地方創生先行型事業であるこくベジプロジェクトは、市内の農家と飲食店をつなぎ、飲食店はこくベジを使ったメニューを提供。市民や外から来た人たちが「食」の体験を通して地域の農業を知り、また地域の飲食店を利用するきっかけづくりにもなっています。こくベジプロジェクトには行政だけでなくJAや商工会、観光協会などの団体をはじめ、活動の中核となる熱意のある市民有志たちに支えられ、今では国分寺市の農畜産物のブランドとしてすっかり定着しています。

国分寺市 インタビュー風景(国分寺市)

こくベジプロジェクトに携わる国分寺市市民生活部経済課の榎本紘幸(えのもと・ひろゆき)係長は、こくベジの認知が進んだ背景には国分寺市内に多い個人経営の飲食店の存在が大きいとしています。国道や主要な幹線道路の少ない同市では、車で行けるファミリーレストランよりも、街中にある小さな個人店を外食に利用するということに親しみのある市民が多かったと考えることができるかもしれません。こくベジプロジェクトでは、それらの個人店に採れたてのこくベジを配達しており、現在ではこくベジを使ったメニュー提供店は105店舗にもおよびます。その中には個人店だけでなく、国分寺駅の駅ビルに入る大手の外食チェーン店やベーカリーチェーン、洋菓子チェーンなども含まれ、さらには市内のセブンイレブンの一部でもこくベジの販売が行われているということです。そして、こくベジを取り扱っている飲食店やこくベジの生産者たちは、お店にフラッグを掲げたりマルシェイベントに参加したりと、PR活動に協力しています。こくベジプロジェクトにより、飲食店はこれまでなかった生産者とのつながりが生まれ、また飲食店同士のつながりも生まれ、さらには市内外のお客さんの循環にもつながり、観光的な面でも振興を促しているといえるでしょう。

「もっと町を良くしたいと自主的かつ精力的に動いていく、熱意のある市民有志がこくベジプロジェクトの強みです」と榎本係長。地産地消をテーマにしているからこそ人々の心の距離が近く保たれ、付加価値の向上を促進していくのだと思います。

また、八王子市にはラーメンで町の活性化を図る「八麺会」という市民団体があります。八王子市はかねてより市内にラーメン店が多く、そのラーメンは刻んだ玉ねぎの具材が特徴でした。これをブランディングして八王子名物とするべく2003年に立ち上げられた八麺会。現在八王子市福祉部高齢者いきいき課の課長である立川寛之(たちかわ・ひろゆき)氏を中心に、地元の活性化を担う市民有志が集まりました。八麺会は八王子特有の刻み玉ねぎがのったラーメンを「八王子ラーメン」と名付け、ラーメンMAPの制作、るるぶやマップルなどの紙面作成支援などで積極的にPR活動をしました。これにより八王子ラーメンというご当地グルメが市内外に認知されるようになり、市民の愛着心を育んできました。

さらに八麺会は地元八王子の飲食業者であるアーバンと連携し、毎年行われる八王子いちょう祭りでの八王子ラーメンの提供や、高尾山ほか同社の市内複数店舗で提供する八王子ラーメンの開発支援を行ったほか、セブンイレブンや日清食品など大手企業とのコラボも実現しました。こうした大手の商品企画は八王子ラーメンが知名度を上げた証拠であり、その縁の下の力持ちとして尽力しているのが八麺会です。地元地域にこだわったご当地グルメの商品開発は、町自体の知名度アップ、そしてご当地グルメを提供する地域の飲食店の集客につながっていきます。ここ数年は全国各地のラーメン店が八王子に進出し、有名店の支店や新たな味での開業など、八王子はますます「ラーメン激戦区」となっているようです。ご当地グルメにフォーカスし地域を盛り立てる八麺会の実態はボランティア活動です。一部の市民たちの活動が地域の価値を再発見し、従来の地域の飲食産業に付加価値をつけた好事例といえるでしょう。

八麺会集合写真(八王子市) 提供:立川寛之氏

4.地域の食の付加価値

このコロナ禍をいかに乗り切るか。現在の外食産業は地域や規模にかかわらず、押し並べてこの課題と向き合っています。国の補償や自治体の支援だけでは経営が困難になり、集客が困難な店舗を抱えるチェーン店は規模を縮小し、閉店を余儀なくされた個人経営のお店も増えている状態です。テレワークやオンライン授業などによって、一部の人はオフィスや学校に行かなくてもよくなり、外食をする頻度が減りました。外食系企業は人々の生活の変化に合わせたサービスがより必要となり、多くの店舗が持ち帰り可能なテイクアウトを取り入れた対策をしています。しかし、人々の生活スタイルが以前のように戻る保証はありません。

このような状況では、大手企業も中小企業も規模に関係なく経営はますます困難になっていくでしょう。そんな中で、今回取材をさせていただいたこくベジプロジェクトと八麺会の地域に根差した活動は、地域の外食産業を持続可能なものにしていく突破口となるような、可能性を感じるものでした。どちらも「自分が暮らす地域が好き」という市民有志が大きな力となり地域の産業を支えています。またこれらの活動は行政や団体、企業、そして個人がそれぞれの領域や強みを持ち寄り、地域の産業を一緒に盛り上げていくという、まちおこしにもつながる活動でした。

現在、すかいらーくホールディングスは立地や年齢層に合わせた事業展開を推進し、八麺会は八王子ラーメンMAPを制作。消費者のコレクション性を刺激し八王子ラーメンを食べてもらう取り組みです。事業者も支援者も、この苦しい状況の中で少しずつ客足を取り戻すべく試行錯誤しています。外食産業がこれからも地域のニーズに応えるためには、企業も個人店も同様に、地域との密接なつながりがさらに必要となってくるでしょう。そのつながりの先にはお客さんとなる市民がいて、その市民の食文化を支えるのが地域の中の飲食店です。そこに、外食産業の未来があることを願うばかりです。

多摩大学ながしまゼミ2年
 渡邉陸斗・松永怜士・石川大翔・塚本朝日

※参考文献
1.文献・論文
  • ・茂木信太郎[1997]「現代の外食産業」日経文庫
  • ・今柊二[2013]「ファミリーレストラン「外食」の近現代史」光文社新書
2.インターネット