第18回 多摩エリアの医療 清瀬

医療をテーマに調べ始めると、多摩エリアならではの特徴が見えてきました。なぜ北多摩には医療機関が多いのか。特に清瀬に多いのはどうしてなのか。学生たちは、清瀬市史を読み、ミーティングを重ねるうちに、現地に訪問して話を伺いたくなったようです。まちづくりには欠かせない医療。今回は結核の話から医療をキーワードにしたイノベーションの可能性を探ります。

監修:多摩大学経営情報学部教授 長島剛

1.清瀬の地域の特徴と、結核・感染症にまつわる歴史的背景

結核は、「結核菌」による慢性感染症です。日本では明治以降国内に蔓延し、若者を中心に多くの人々が亡くなり、不治の病として恐れられていました。

以下のグラフは、地域医療情報システムにより2021年11月現在の地域内医療機関情報の集計値(人口10万人あたりは2020年国勢調査総人口で計算)に基づいて作成した、多摩エリアにおける結核・感染症病床数を示したものです。

多摩エリアの結核・感染症病床数(343)は東京都全体のうち7割を占めていますが、その6割が清瀬市にあることがわかります。現在は医療技術の進歩により結核にかかる人は減ってきており、私たちの世代では身近に結核の話を聞いたことがある人は多くありません。そのため今回は清瀬市をたずねて、結核について調べることにしました。

清瀬市史によると、清瀬に病院がつくられるようになったのは、都心からの距離や自然環境が大きな要因であったようです。1909年には清瀬市に隣接する東村山市にハンセン病患者対象の全生病院(現:国立療養所多磨全生園)が設立されており、その環境の良さは実証されていました。1931年に東京府立清瀬病院(現:国立病院機構東京病院)が開設すると、べトレヘムの園(1933年)や府立静和園(1934年)など、次々と結核治療や療養などの施設が設立されていきました。当時結核は「国民病」とも呼ばれ、最も恐ろしい伝染病として捉えられていたため、病院などの建設にあたっては地元住民の反対運動なども起こっていました。しかし、一大不況時代でもあり、病院や関連施設のための土地買収や雇用、また、人口流入による商店の活性化など、まちへの経済効果の高さが地域を支えていたことも事実のようです。

第2次世界大戦後には、抗生物質ストレプトマイシンが国内に普及し、1948年にはBCGワクチンによる結核予防接種が法制化され、結核による死亡者は激減していきました。結核療養の地として発展していった清瀬ですが、1960年代に入ると病床の非結核化が進み始めました。いきなり一般病院になったわけではなく、結核病床と非結核病床の割合を変化させながら、のちの一般病院化につながっていきました。また、国立療養所東京病院(現:国立病院機構東京病院)では1987年に臨床研究部を設置し、結核だけではなく呼吸器感染症やエイズ及び総合リハビリテーション研究を推し進めていきました。

2.清瀬市が他の自治体を牽引しながら、未来に向き合う

清瀬市企画部のシティプロモーション課長・木原雄嗣氏と、同課市史編さん室の香西真弓氏に、結核予防に関する連携事情や、多摩エリアの医療の今後などについてインタビューを行いました。

※清瀬市役所外観(2022年12月2日筆者撮影)

まず、結核予防に関する連携事情についてうかがってみました。2019年2月7日(木)清瀬市に研究所を構える公益財団法人結核予防会と、学校法人北里研究所が包括的連携協定を締結しました。この連携は、結核に対する新たな治療薬の創出のほか、人材育成につながると感じます。技術革新で医療の発展を目指すだけでなく、結核に関する歴史的資産や知的資源、人材などを活用できるネットワークが構築できれば、幅広い分野で効果が得られることでしょう。

医療機関の充実だけでなく、豊かな自然環境や農産品など、清瀬市には強みとなる魅力がたくさんあります。「新事業を起こしたい若い方が地元で働き、長時間通勤しなくても仕事ができるようなまちになるように願っています。医療機器などを扱う医療系ベンチャーはもちろん、医療系以外の分野でも事業を起こしてみたい方にぜひ来てもらいたいです」と木原氏。まちの魅力を高めて清瀬市の良さをアピールすることで、清瀬市で起業してみたい人々がどんどん増えていくだろうと考えています。

清瀬市郷土博物館では、2022年2月から2022年7月まで、結核療養の歴史を残していくためのテーマ展示『結核療養と清瀬』が開催されていました。こちらは市史編さん室の企画によるものです。木原氏は「現在、結核の歴史に関する資料を集めており、2027年には清瀬と結核療養の歴史に特化した清瀬市史の一冊を刊行する予定です。さらに今後は、清瀬と同じく結核療養の地であった神奈川県茅ケ崎市などとも協力しながら、結核療養の歴史の保存・継承に取り組んで行きたいです」と話してくれました。現在、結核の蔓延国と位置付けられてきた日本の患者数が少しずつ減り、厚生労働省が2021年夏に公表した統計で初めて欧米並みの「低蔓延国」となったことがわかりました。しかし、ここが最終ゴールではありません。他の地域とのコミュニティを醸成することで、結核に対する予防啓発に寄与していきたいというのが清瀬市の願いです。

3.考察

病院を始めとする医療機関は、私たちの生活において欠かせないものです。怪我をした時や病気の疑いがある時は、医療機関に行き検査を行い、適切な治療を受けます。現在日本では多くの人が適切な治療を受けられるようになっていますが、昔は皆が同じ医療を受けられるわけではありませんでした。医療技術の進歩や国内情勢の変化などにより、現在の日本の医療があると考えます。

清瀬市の歴史的背景を調べ、自治体職員の方への取材を経て、なぜ清瀬市が結核の歴史をプロモーションするかということがわかりました。結核病の治療や研究に携わってきた先人たちの意志を継ぎ、清瀬市における結核の歴史を伝えることは、人々の体調管理やより良い健康な生活への意識向上につながっていくのではないでしょうか。また、先進的な医療技術を持っている清瀬市と他の自治体との連携は、地域医療で「人を幸せにする」ための第一歩なのだと思います。より多くの人々とのつながりを創出していくことで、他の地域との共存共栄になるでしょう。結核の正しい情報や歴史を語り継ぎながら医療系分野を時代とともに革新させ、さらに自然・農・文化・芸術など、まちの特徴を生かした産業が発展していけば、清瀬市は多摩エリアの中でもイノベーティブなまちとして注目を集めていくと考えられます。かつて「病院の街」と呼ばれていた清瀬市は、これから「未来産業街」へと変わっていきます。

※取材後の集合写真(左から、ながしまゼミ:石田、清瀬市企画部シティプロモーション課長・市史編さん室長・郷土博物館長 木原雄嗣 氏、ながしまゼミ:趙、清瀬市企画部シティプロモーション課市史編さん室 香西真弓 氏)

多摩大学ながしまゼミ2年
石田啓・趙彦明

※参考文献
1.文献・論文
  • ・島尾 忠男[2013]. 「清瀬と結核」『複十字』No.348
  • ・清瀬市史編纂委員会[1973]. 『清瀬市史』
  • ・清瀬市史編さん委員会[2020].『清瀬 あの頃 この景色(市制施行50周年記念誌)』
2.インターネット
3.インタビュー
  • ・清瀬市企画部シティプロモーション課長・市史編さん室長・郷土博物館長 木原雄嗣 氏2022年12月2日(金)
  • ・清瀬市企画部シティプロモーション課市史編さん室 香西真弓 氏 2022年12月2日(金)